2009年05月19日

「とらドラ!」−純愛ブーム、スピリチュアルブームのその先

実際に会った人に話をしてもmixiやtwitterに書いても「そんなアニメにのめり込むような人じゃないと思っていたのに」的な白い視線を感じるし、「あと1年は彼女ができないフラグ」が立ちそうな気がするけど、久々に映像作品としてすごいモノに出会ったのであえて書きます。ネタばれしないように気をつけながら。

toradora

普段はニュースとかNHK教育の教養番組ぐらいしかテレビを見ないのですが、めんたねの人たちに勧められて「とらドラ!」を見始めたら、ここ10年ぶりぐらい久しぶりにどはまりしました。アニメも3周以上、小説も2周。あ、ゲームはまだ買ってませんよ。生活壊れてしまいそうなのでw

とらドラ!は色んな方向から、多面的に見ることができるし、まだまだこの作品から学ぶことは多いし、吸収しきれていないのですが、この作品の「文学作品としての価値」をあえて文書化してみたいと思います。この数年は、純愛ブームというものがあったり、スピリチュアルが幅をきかせるようになってきたけど、とらドラ!を見ると、「純愛やスピリチュアルを求める心理」の先にあると思われる、次の世界の形が透けて見えます。実際にこれが本当の未来になるかどうかは、この作品が「アニメ」としてではなく「映像作品」として、アニメ・ライトノベル以外の層にも受け入れられるか次第ではあると思いますが。

とらドラ!は社会性の成長の物語

冒頭の画像はアニメの公式サイトです。この公式サイトに書かれている作品紹介とキャラ紹介は嘘です。いや、6話ぐらいまでは嘘じゃないです。でもその後は「超弩級のハイテンション学園ラブコメディー」ではなくなっていきます。特にアニメの11話、原作小説の5巻あたりから。登場人物も、仲間との関わりの中でものすごい勢いで成長していきます。最終話まで見て1話に戻って見始めると「あれ?別の作品」と見まごうほどです。とらドラ!の登場人物達は、ただ自分の「エゴ」のままに動くことはほとんどないです。ほとんどのケースでは「あの人のため」とか「あの人の望みを叶えるため」と、自分以外の視点で動いているんですよね。すごいきつい口調だったり、殴り合いのケンカをしても裏に「やさしさ」がかいま見えます。そのために悩んだり、苦しんだりしながら、すごい勢いで成長していきます。元々小説10冊というボリュームを25話に詰め込んであるので、「これ映画ですか?」というぐらいテンポもいいです。早すぎて、心情の変化がどうなっているか頭が追いつかないほどです。

僕を「とらドラ!病」に感染させた張本人のこうじさんは、mixiの日記に以下のように書かれていました。

「自分のため」と「他人のため」って本当に区別が付くのだろうか?
仮に区別がつくとしたら、どちらを優先するほうがいいのだろうか?
「人に譲る」とはどういうことなのだろうか?
家族愛と恋愛はなにがどうちがうのだろうか?
お互いが対等な立場で関わる対称的なパートナーシップと
支える人と支えられる人という相補的なパートナーシップには
それぞれどんな特徴があるのだろうか?
感情を表に出すことはいいことなのか?
逆に感情を隠すことはいいことなのか?

とりあえず、現時点でこれだけは言える、というのは
とらドラ!は登場人物達がものすごくベーシックなテーマを
色々な形で考え、悩んで、成長する
とてもいいアニメだ、ということである。

「ラブコメ」という言葉ではとらドラ!の一部しか表現できていない気がすごいするんですよね。

純愛やスピリチュアルブームの裏で

あ、このあたりは専門ではないので、誤解しているかもしれません。

昔は心の病というと、ヒステリーだったそうです。倫理の授業でフロイトの話を聞いたときに「性欲がすべての要求の根本っておかしくね?」「心の病の原因が性的な抑圧というのもおかしいんじゃ?」と思ったものでしたが、当時の性のルール(結婚するまでは処女でなければならないなど)を考えると、なるほどと思いました(今も性的な趣向としてはあると言われましたが、それが唯一ではないですよね)。不純な行為=人間としての安定した生活の崩壊なので、動物化することでアイデンティティを保つ、というのは理解できます。

最近は統合失調症がブーム?だそうです。遺伝とかいろいろな要因があるとは言いますが、多様な価値観の中でさまざまなプレッシャーに晒されると、自分の立ち位置が徐々にわからなくなって軽いパニック状態に・・・というのは僕も何度か経験があります。ストレスというのは、「ストレッサーが・・・」みたいな説明を見ますが、それは役に立つ分析とは言えませんよね。「交通事故が起きるのは人間に足があって歩くからだ」というようなものです。GTDをやって分かるストレスの原因というのは「罪悪感(とらドラ!のキーワードでもありますが)」です。達成しないと行けないモノ、してあげたいモノ、達成できない自分(他に用事があるなど)など、同時には満たすことができない物差しが登場すると、ストレスが発生します。

純愛ブームの時の小説を何冊か読んでみましたが、それを読んで感じたのは「自分を認めてくれる、唯一の世界の中に生きる」ということです。あまり他者が出てこないですよね。他者との関わりの中で話しが進むというよりは、その小さい世界の登場人物の中だけの話なんですよね。自分を認めてくれる世界、しかも、死という永遠の中でフリーズしたその世界の中で生きることで、価値観の波の中から逃れているような、そんな印象を受けました。いわば「とある物差し以外は見ない」ということですね。話としては面白いなぁ、というのもあったけどね。

スピリチュアルについては香山リカさんの「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 」に詳しく書かれていますが、「今の自分を肯定して欲しい」という欲求がブームの根幹であるとされています。これも純愛ブームと同じく、多様な価値観の他者との関わりではなく、今の自分を認めてくれる小さな世界の中で生きるということです。スピリチュアルに入る人は、それぞれの人が個別に、教祖の人と関わっているという関係を求めるらしいです。横の関係は求めないらしいです。それはそうですよね?横の関係を作ることは、捨てようと思っているものをわざわざ拾う行為ですからね。

10年ほど前からある「癒し」ブームもそうですよね。「癒し」という言葉を最初に現代社会を記述するのに使おうとした、東工大の社会人類学者の上田先生は「最初はこういう意味じゃなかった」と言われてましたが、最終的には消費的な経済活動の中では「逃避先」としての使われ方が多かったですもんね。

僕が過去にはまった映像作品としては北野武監督作品があります。あちらの場合は、「動物的な破壊的衝動や、バカな部分も含めた人間性の礼賛」「未来ではなく、今という時間を守るために全力を尽くす」みたいな印象を受けました。高校時代はびっくりを超えてショックでしたが、今改めて考えると、監督の心理としてはこのようなものがあるんじゃないかと思います。これもある意味、「我思う故に我あり」的な観点で、一つの物差しにフォーカスしているのかな、と思います。

とらドラ!が見せるその先の世界

とらドラ!の登場人物はそのような価値観とは真逆を行っています。「愛という絶対があって、それさえあれば救われる」というようなことは出てきません。唯一、4話の大河が、1年前の入学早々の出来事を回顧するところでそのような言葉を言っていますが、その後成長していったあとはさっぱり出てきません。出てくるのは「やさしさ」。やさしくするためには相手が必要です。「周りの人に何かをしてあげるか?」というのをエンジンにして登場人物たちが行動をおこしていきます。

社会というのは一人で生きていける世界ではなく、何事をするにしても他人を避けることはできません。ニートだといっても、家を守ってくれる家族がいないとホームレスになってしまうわけだし。コンビニに行っても、それを支える店員さん、流通の方、商品製造、開発、経営etc多くの人がいるおかげでコンビニの経営が成り立っています。とらドラ!の「他者との客観的な関係の中に自分の価値観を見つけていく」という積極性は、「統合失調症の世界の中で、逃避先を見つける」という現代的な価値観の中で、「積極的に自分の居場所を作る」という攻めの姿勢への反転攻勢と言えると思います。

ちなみに、原作の竹宮ゆゆこさんのもう一つの作品、「わたしたちの田村くん」にはこのような構造は見あたりません。田村くんととらドラ!の間で、作者の中に何か大きな変化があったのかも。作品としては面白かったですけどね。

IT業界のコミュニティ活動

最近はコミュニティ活動が頻繁に行われていますよね。勉強会ブームです。これを支えている価値観も「他者との関係の中に自分を見つけていく」に他ならないと思います。

多すぎて良くわからないし、毎日日本のどこかでは勉強会が行われているという状況です。最近、このようなコミュニティ活動(僕から見えるのはごく一部ですが)は、組織化されて行う活動ではなくて、コミットメントによって運営されている色合いが強くなっている気がします。そして、会社の名刺から、SNSやtwitterなどの個人主体のツールに移行することによって組織の壁がどんどん溶け出しているのを感じます。

たぶん、気軽に続いていくようなイベントをするには、組織図をがちっとつくって「責任を分配する」という思考ではうまくいかないんだと思います。とりあえず枠だけつくって「みんな協力してよ」と呼びかけて、それに手を挙げた人だけで軽くさらっとイベントを運営。ロールベースのイベント運営から、コミットメントベースへ。手伝う人は「自分はこういう貢献ができる」という感じで参加。もちろん、対外的な活動にはそれなりの責任が生じますが(特に行政との調整)、イベント自体は、参加者と運営の距離も近くて気軽な感じです。「自分が他の人に貢献できること」は初めは小さいかもしれませんが、それを見つけて少しずつ行動していくことで、いつの間にかに「自分の場所」をしっかりと確保できてしまう。アジャイル系のイベントの運営だと、僕は古参な方だったりしますが、僕より後から来た人を見ても、自分を振り返っても、「そういえば重要なのは肩書きじゃなくてコミットメントだったなぁ」と思います。あ、栃木に来てからあんまりお手伝いできてなくてすみません。できることからお手伝いします。>XPJUGの運営の方々

その分、このやり方では、参加料の高いイベントや、超大規模なイベントを取り仕切ったりとか、そういうのは難しいのかもしれませんけどね。

話としても面白い

いくら、色々学びがあるといっても、道徳の教科書みたいなものじゃ何度も見る気は起きないですよね。この作品は心理的にはリアルに多層的に描かれているけど、極端すぎる性格のキャラクタが織りなす物語です。ただでは済みません。コメディ的な部分もたくさん。久しぶりにテレビを見て涙が出るほど笑いました。シリアスな場面もたくさんあるけど、夜中に見ても鬱になったりしません。また、表情などの表現が丁寧で「次はこうなる」と分かっていても、それでも引き込まれてしまう場面も多いです。悲しい場面の前の明るい表情とか、コントラストが倍増して2回目の方が心理的にきゅーっとなっちゃいます(特に19話)。

あ、ライトノベルは「あのネタの元ネタはこれ」みたいな楽しみ方もあるらしいのですが、そういうのは一切知らなくても大丈夫です。基本的にネタはみのりんが一人で受け持っているので「あ、みのりんはネタ好きなのね」という雰囲気さ え分かれば前提知識は無くても楽しめます。

とらドラ!は義務教育に入れるべき!

色々長々と書いてきたけど、僕から見たとらドラ!分析は唯一絶対のものではありません。書けば書くほど書きたいことが次々に出てきます。このエントリーもかなり削りまくってます。この作品は本当にいろんな見方ができます。「とらドラ!からNLPを学ぼう」とかもmixiの日記で書いたことありますしね。こうじさんと僕の共通見解は「とらドラ!は義務教育に入れるべき!」です。ちなみに、とらドラ!のアニメを13話まで見たor原作の5巻までは読んだという人以外からの苦情は受け付けません。

posted by @shibukawa at 02:50 | Comment(239) | TrackBack(0) | 日記 はてなブックマーク - 「とらドラ!」−純愛ブーム、スピリチュアルブームのその先
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